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2026年1月18日
【歴史解説】浄土真宗はなぜ西本願寺と東本願寺に分かれた?その驚きの経緯とは

「浄土真宗は、親鸞聖人によって開かれた日本仏教の大きな流れですが、なぜか「西本願寺」と「東本願寺」という二つの本山に分かれていますよね。お墓参りやお寺で「うちの宗派は西(東)です」と聞くけれど、そもそもなぜ分かれてしまったのだろう?そんな疑問をお持ちの方も多いのではないでしょうか。この二つの本山が分かれた背景には、戦国時代の権力争いや、江戸幕府の政治的思惑が深く関わっています。この記事では、浄土真宗が西本願寺と東本願寺に分かれた驚きの歴史的経緯を、専門知識がなくても理解できるように、物語のように分かりやすく解説していきます。この記事を読めば、あなたの疑問はすっきり解消され、浄土真宗の歴史への理解がより一層深まるはずです。
浄土真宗の開祖・親鸞聖人と本願寺の成立
浄土真宗が西本願寺と東本願寺に分かれた歴史を紐解く上で、まずはその根本である親鸞聖人の教えと、本願寺がどのようにして教団としての基盤を築いていったかを知ることが重要です。
親鸞聖人の生涯と教え
浄土真宗の開祖である親鸞聖人は、平安時代末期の1173年に京都で生まれました。幼くして出家し、比叡山で厳しい修行を積みますが、自力での悟りに限界を感じ、法然上人のもとで専修念仏の教えに帰依します。
親鸞聖人の教えの核心は、「他力本願」と「悪人正機」の思想にあります。他力本願とは、自らの力ではなく、阿弥陀如来の慈悲の力によってのみ救われるという考え方です。そして、悪人正機とは、自らが罪深い「悪人」であると自覚する者こそが、阿弥陀如来の救いの対象であるという教えです。この教えは、身分や能力に関わらず、誰もが救われる道を示したため、当時の民衆に広く受け入れられました。
本願寺の起源と教団の発展
親鸞聖人の入滅後、その教えは弟子たちによって受け継がれました。親鸞聖人の娘である覚信尼が、聖人の墓所を守るために「大谷廟堂(おおたにびょうどう)」を建立したことが、後の本願寺の起源とされています。
その後、覚如(かくにょ)や存覚(ぞんかく)といった歴代の宗主(指導者)たちが教団の基盤を固めていきました。特に、室町時代に第八代宗主となった蓮如(れんにょ)は、「御文(おふみ)」と呼ばれる平易な文章で教えを説き、各地に布教拠点を築きました。その結果、本願寺は飛躍的に発展し、北陸や畿内を中心に多くの門徒(信徒)を擁する一大教団へと成長していったのです。この強大な門徒集団は、やがて時の権力者にとっても無視できない存在となっていきます。
本願寺の隆盛と戦国時代の動乱
蓮如上人による教団の飛躍的拡大
浄土真宗は、親鸞聖人の教えを基盤としながらも、室町時代に入ると第八代宗主である蓮如上人(れんにょしょうにん)によって飛躍的な発展を遂げます。蓮如上人は、難解だった教義を平易な言葉で説き、親鸞聖人の教えを記した『御文(おふみ)』を全国に広めました。この『御文』は、当時の民衆にとって非常に分かりやすく、多くの人々が浄土真宗の門徒となっていきます。
蓮如上人は、各地に「道場」を設置し、門徒たちが集まって教えを学ぶ場を設けました。これらの道場は単なる信仰の場にとどまらず、地域の情報交換や互助の拠点としても機能し、強固な門徒組織を築き上げていきました。その結果、本願寺は単なる宗教教団の枠を超え、経済力と武力をも兼ね備えた一大勢力へと成長します。特に有名なのが「加賀一向一揆」です。これは本願寺の門徒たちが中心となって加賀国(現在の石川県)の守護大名を追放し、約100年間にわたって自治を行ったというもので、本願寺の組織力と影響力の強大さを示す象徴的な出来事でした。
強大化する本願寺と権力者との軋轢
蓮如上人によって教勢を拡大した本願寺は、各地に広がる門徒組織と経済力を背景に、戦国時代の権力構造の中で無視できない存在となっていきました。当時の本願寺は、単に精神的な拠り所であるだけでなく、広大な寺領からの収益、門徒からの寄進、そして有事の際には武装して戦う「一向衆」と呼ばれる強力な武力をも有していました。
このような本願寺の強大化は、室町幕府や各地の戦国大名にとって、大きな脅威となっていきます。自国の領土内に本願寺の門徒が多く存在することは、時に領主の支配を揺るがしかねない状況を生み出し、政治的な対立や軍事的な衝突の原因となりました。特に、天下統一を目指す織田信長のような中央集権的な権力者にとっては、本願寺の独立した勢力は目の上のたんこぶであり、やがて避けられない激しい軋轢へと発展していくことになります。
織田信長との激しい対立:石山合戦
信長の天下統一と本願寺の抵抗
戦国の世を終わらせ、天下統一を目指していた織田信長にとって、強大な宗教勢力である本願寺は大きな脅威でした。当時の本願寺は、単なる寺院という枠を超え、多くの信徒を抱える巨大な宗教都市「石山本願寺」を拠点とし、独自の軍事力(門徒衆)を持つ一大勢力として君臨していました。信長は、自らの権力を確立するためには、このような独立した勢力を排除する必要があると考えたのです。特に、本願寺が反信長勢力と結びつき、各地で一揆を扇動する動きを見せたことは、信長にとって見過ごせないものでした。
10年にわたる石山合戦の激戦
信長は本願寺の排除を決意し、元亀元年(1570年)から天正8年(1580年)にかけて、本願寺との間で壮絶な戦いを繰り広げました。これが世に言う「石山合戦」です。本願寺の拠点である石山本願寺は、難攻不落の要塞であり、本願寺第11世宗主・顕如(けんにょ)は、全国の門徒衆に呼びかけて徹底抗戦の構えを見せました。
織田軍は度重なる総攻撃を仕掛けましたが、本願寺側は籠城戦に徹し、信長の予想をはるかに超える抵抗を見せました。特に、本願寺は毛利水軍の支援を受けて海上からの物資補給を受けており、これを断つために信長は九鬼水軍を率いて海上封鎖を試みるなど、陸海両面での激しい攻防が繰り広げられました。この10年にも及ぶ戦いは、両者に甚大な被害をもたらす消耗戦となり、信長の天下統一事業を大きく遅らせる要因にもなりました。
和睦と本願寺の退去
長期にわたる石山合戦は、最終的に朝廷の仲介によって和睦へと向かいます。顕如は徹底抗戦を主張する強硬派と、和睦を求める穏健派の間で苦悩しましたが、最終的には朝廷の勅命を受け入れる形で、天正8年(1580年)に石山本願寺を退去しました。この際、顕如の長男である教如(きょうにょ)は徹底抗戦を主張して籠城を続けましたが、信長の調略と顕如の説得により、最終的には退去を余儀なくされました。
石山本願寺は信長によって焼き払われ、本願寺は長年の拠点と多くの門徒を失うという大きな打撃を受けました。この合戦は、本願寺が政治的・軍事的な独立勢力としての地位を失う転換点となり、その後の本願寺の歴史に決定的な影響を与えることになります。
豊臣秀吉による本願寺の移転と分裂の始まり
石山合戦終結後、天下を掌握した豊臣秀吉は、再び強大化する可能性を秘めた本願寺に対し、どのような政策を打ち出し、それがどのように東西分裂の直接的な引き金となったのでしょうか。
秀吉の天下統一と宗教政策
織田信長の後を継ぎ、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、信長が苦しめられた強大な寺社勢力の力を削ぐ必要性を深く理解していました。特に、一向一揆として武装し、信長と10年にも及ぶ石山合戦を戦い抜いた本願寺は、秀吉にとって最大の警戒対象の一つでした。秀吉は、武力による徹底的な弾圧ではなく、巧みな政治手腕によって本願寺をコントロールし、その宗教的権威を維持させつつも、政治的な影響力を排除しようとしました。これは、信長の強硬策とは異なる、より柔軟な宗教政策であったと言えます。
大坂からの退去と京都への移転命令
石山合戦の舞台となった大坂の石山本願寺跡地は、戦略的な要衝であり、秀吉はここに天下統一の拠点となる大坂城を築きました。これに伴い、本願寺は1583年(天正11年)に大坂からの退去を命じられ、その拠点を京都の七条堀川に移すことになります。これは、本願寺を大坂という交通の要衝から遠ざけ、自らの監視下に置くことで、再び武装勢力化する芽を摘むとともに、中央集権体制を強化する目的があったとされています。秀吉は京都に広大な寺地を与え、本願寺の宗教活動を保障する姿勢を見せましたが、その実態は権力による統制に他なりませんでした。
寺地の分割と東西本願寺の萌芽
本願寺が京都に移転した後、秀吉はさらなる介入を行います。1592年(文禄元年)、法主・顕如が亡くなると、秀吉は顕如の長男である教如を隠居させ、その弟の准如を新たな法主に据えるよう命じました。これは、石山合戦の際に信長に徹底抗戦を主張した教如を危険視し、穏健派である准如を擁立することで、本願寺内部の統制を図ろうとしたものです。
しかし、この決定は本願寺内部に深い亀裂を生みました。教如は秀吉の命令に反発し、多くの門徒が教如を支持しました。結果として、秀吉は教如を隠居させる一方で、京都の七条堀川の寺地を分割し、准如が継承する本願寺(後の西本願寺)と、教如が隠居後に与えられた土地に建てられた本願寺(後の東本願寺)という、二つの本願寺が並立する状況が生まれたのです。この寺地の分割と法主の後継者問題への介入こそが、浄土真宗が西本願寺と東本願寺に分裂する直接的な火種となりました。
江戸時代:西本願寺と東本願寺の正式な分立
豊臣秀吉の時代に本願寺の分割の萌芽が見られましたが、それが決定的なものとなり、西本願寺と東本願寺という二つの独立した宗派が明確に確立されたのは、江戸幕府を開いた徳川家康の政策によるものでした。家康は、宗教勢力が再び政治的な力を持つことを警戒し、巧みな戦略で本願寺を統制しようとしたのです。
徳川家康の天下統一と本願寺政策
天下統一を果たした徳川家康は、戦国時代に武家勢力と対等に渡り合った本願寺の強大な力をよく理解していました。信長との激戦を繰り広げた石山合戦の記憶も新しく、再び教団が統一された状態で政治的な影響力を持つことを警戒していました。そのため、家康は本願寺の勢力を弱体化させ、幕府の宗教統制を強化する戦略を立てます。その中心にあったのが、本願寺を二つに分裂させ、互いに牽制させるという巧妙な政策でした。
東本願寺の建立と両本願寺の確立
家康は、すでに顕如の長男・教如(きょうにょ)を支援し、本願寺の跡目争いを続けていた状況を利用しました。慶長7年(1602年)、家康は教如に対し、京都の烏丸七条の地に広大な寺領を与え、「真宗本廟」として新たな本願寺の建立を許可します。これが現在の東本願寺(真宗大谷派の本山)の始まりです。
これにより、豊臣秀吉によって本願寺の寺地を寄進された七条堀川の本願寺(後の西本願寺)と、家康の支援によって建立された烏丸七条の東本願寺が並立する形が確立されました。教如は東本願寺の初代宗主となり、一方の准如は西本願寺の宗主として存続することになります。この家康の政策により、本願寺は完全に東西に分かれ、それぞれが独自の道を歩むことになったのです。
江戸幕府の宗教統制と宗派制度
江戸幕府は、キリスト教の禁教とともに、仏教教団に対しても厳格な統制を行いました。その代表的な制度が「寺請制度(てらうけせいど)」です。これは、すべての国民がいずれかの寺院の檀家となり、その寺院が発行する寺請証文によって身分を証明するという制度で、幕府はこれにより民衆を管理し、同時に仏教教団をも支配下に置きました。
このような宗教統制の中で、西本願寺は「浄土真宗本願寺派」、東本願寺は「真宗大谷派」として、それぞれが独自の教団組織と宗派を確立していきました。幕府は、両派が互いに競い合うことで、いずれか一方が強大な力を持つことを防ぎ、結果として幕府の安定に寄与するという計算がありました。こうして、本願寺の東西分裂は、単なる内紛に留まらず、江戸幕府の宗教政策の一環として、日本の仏教史に深く刻まれることとなったのです。
現在の西本願寺(浄土真宗本願寺派)と東本願寺(浄土真宗大谷派)
豊臣秀吉による本願寺の移転と、徳川家康による寺地の寄進によって始まった浄土真宗の東西分立は、江戸時代を通じてそれぞれの宗派として確立しました。現代においても、浄土真宗は大きく「浄土真宗本願寺派(西本願寺)」と「真宗大谷派(東本願寺)」の二つの宗派として存在し、それぞれ独自の活動を行っています。
両派の正式名称と本山
西本願寺と東本願寺は、それぞれ正式名称と本山を定めています。
| 項目 | 西本願寺(浄土真宗本願寺派) | 東本願寺(真宗大谷派) |
|---|---|---|
| 正式名称 | 浄土真宗本願寺派 | 真宗大谷派 |
| 本山 | 龍谷山本願寺(通称:西本願寺) | 真宗本廟(通称:東本願寺) |
| 本山所在地 | 京都市下京区堀川通花屋町下ル本願寺門前町 | 京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町 |
このように、正式名称や本山の呼び方には違いがありますが、どちらも親鸞聖人の教えを現代に伝える重要な役割を担っています。
教義・儀式におけるわずかな違い
根本的な教えである「阿弥陀仏の本願を信じ、念仏を唱えることで救われる」という親鸞聖人の教えに変わりはありません。しかし、それぞれの宗派は歴史の中で独自の解釈や伝統を育んできました。
具体的には、以下のような点でわずかな違いが見られます。
- 勤行(おつとめ)の作法: お経の読み方や節回し、座る位置などに細かな違いがあります。
- 仏具の形式: 仏壇の荘厳(飾り付け)や、使用する仏具の形、配置にも違いが見られます。例えば、本願寺派では「お内仏」と呼ばれる仏壇を基本とするのに対し、大谷派では「お仏壇」と称することが多く、その様式にも違いがあります。
- 教義の解釈: 親鸞聖人の教えの根幹は同じですが、特定の教義に対する表現や強調の仕方にわずかな差異がある場合があります。
これらの違いは、信徒にとっては日々の信仰生活の中で意識されるものですが、宗派の根本的な教えを揺るがすものではありません。
現代における活動と社会貢献
西本願寺と東本願寺は、現代社会においてもそれぞれの特色を活かした幅広い活動を展開し、社会貢献に努めています。
- 教育活動: 両派ともに、龍谷大学(西本願寺系)や大谷大学(東本願寺系)といった大学を設立・運営し、仏教精神に基づいた教育を行っています。また、幼稚園や高等学校も多数運営し、次世代の育成に力を入れています。
- 社会福祉活動: 医療、介護、福祉施設を運営し、高齢者や障がい者、困難を抱える人々への支援を行っています。
- 国際交流・平和活動: 仏教の教えを世界に広めるための国際交流活動や、平和を希求する運動にも積極的に取り組んでいます。
- 文化財保護: 各本山が有する貴重な文化財や建造物の保存・修復活動を通じて、日本の文化継承にも貢献しています。
このように、両派はそれぞれが築き上げてきた伝統を大切にしつつ、現代社会のニーズに応える形で、多岐にわたる活動を展開しています。
まとめ:分立がもたらした歴史的意義と現代への影響
分立の歴史的背景と意義の再確認
浄土真宗が西本願寺と東本願寺に分かれた歴史は、単なる宗派内の出来事ではなく、日本の政治史や社会情勢と深く結びついていました。親鸞聖人の教えが民衆に広がり、本願寺が強大な勢力を持つようになったことが、戦国大名である織田信長や豊臣秀吉の警戒を招きます。彼らは本願寺の力を削ぐため、移転や分裂といった政治的な介入を行いました。
そして江戸時代に入ると、徳川家康がその分裂を決定的なものとし、西本願寺と東本願寺という二つの本山が確立されます。この分立は、時の権力者が宗教勢力を統制しようとした結果であり、結果的に浄土真宗が多様な形で教えを広める基盤ともなりました。
現代社会における浄土真宗の役割と展望
西と東に分かれたとはいえ、浄土真宗は現在も日本仏教において最も大きな宗派の一つとして、社会に大きな影響を与え続けています。両本願寺はそれぞれ独自の活動を展開しながらも、親鸞聖人の教えである「他力本願」や「報恩感謝」の精神を現代に伝え、多くの人々に心の安らぎを提供しています。
現代社会では、少子高齢化や核家族化が進み、お寺と人々の関係性も変化しています。しかし、浄土真宗は布教活動だけでなく、社会福祉、教育、文化活動などを通じて、現代社会が抱える問題に対し、仏教的な視点から向き合っています。今後も、時代とともに変化する人々のニーズに応えながら、心のよりどころとしての役割を果たしていくことでしょう。
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